2011年05月20日

ムスリムとは誰か?‐クルアーンの徒の品性5


(以下青の太字が本文、黒字が私のコメント)




 「彼は知識ゆえに嫉妬し、知識でもって推測する。そして人の落ち度を語らなければならない時には知識をもって語り、その者の真実に関しても知識をもって口を閉ざす。

 イスラームはそもそも、「嫉妬」というものを好ましくない性質の一つと位置づけ、人間個人と社会に害悪をもたらす非常に危険なものと見なしている。

 クルアーンの中でも、「嫉妬」に対してアッラーのご加護を乞うことが命じられている(1)し、イスラーム的世界観においては天で犯された最初の罪も、地上で犯された最初の罪も、一様に「嫉妬」によるもの(2)とされる。

 しかしここで取りざたされている「知識ゆえの嫉妬」とは、これらの禁じられた「嫉妬」とは種類の異なるものである。


 一般的にイスラームで禁じられている「嫉妬(アラビア語の“ハサド”)」とは、日本語でいうただの「妬み」や「羨み」とは違う。詳しく言えば、「妬みを向ける対象に対し、その妬みの理由となっている何らかの恩恵の喪失を願うこと(3)である。たとえば、誰かをその美貌ゆえに妬み、「火傷にでも遭って、醜くなってしまえばいいドコモポイント」などと望むことが挙げられる。

 一方ここで取りざたされている「嫉妬(アラビア語の“ギブタ”)」とは、羨望の的となっているそのものが自分にもあることを願うことであり、相手に対してその恩恵の消失まで望むことはない。本来は前者と区別して、「羨望」とでも訳すべきものだろう。

 この意味での「嫉妬」はイスラームにおいて、それ自体禁じられているわけではない。その対象がイスラーム的に合法であれば合法であり、非合法であればそうであるだけである。そして以下に示すような伝承にもある通り、その対象と利用の仕方によっては大きな利益すら導く手段にもなりえるものだ。

 預言者ムハンマドは、こう仰った:「2人の者以外に対しては、嫉妬すべきではない。(それは)アッラーがクルアーンを授けられ、それを昼夜を通して読誦する者・・・そして財を授けられ、それを真理において費やす者である。(4)



 さてイスラームは何よりもまず、正確な知識を身につけることを義務付けている。そして人間のあらゆる行動が、その正しい知識に基づいたものとなることを求めている。

 そしてイスラームは実際のところ、人間が必要とする大小さまざまな物事に関して、理想的な手法を提示している。

 ムスリムは「神の言葉」であるクルアーンと、神の使いとしてその言葉を伝達する「預言者」ムハンマドの言行をその知識の源泉とし、それらを「人間の現世と来世にとって最も有益なもの」を提供する指針として、信じ、実生活に取り入れていくことを求められているのだ。


 しかしそのような中でも、単なる知識の受け売りでは切り抜けられない状況があるものだ。正しい知識と正しい理解は、常に表裏一体でなければならない。そしてここで取り上げられている「知識」もまた、実のところ「信仰」が先立ち、かつその知識の「正しい理解」と「実践」を要求する種類のものである、と捉えるべきだろう。


 たとえば前出の「陰口」の罪と、「それを語らなければ、大きな弊害が起こる可能性が高い」ことの狭間に立たされたような場合。このような時は「知識」と共に、その実践として「理解力」「判断力」も要求される。

 具体的には、誰かが社会に大きな害を及ぼすような行為‐たとえば児童ポルノなどの商売に陰で携わっているのを知ってしまった場合がく〜(落胆した顔)

 このような時、まずはその人物に対して自分の能力の許す範囲で、かつその罪を周囲に流布させぬよう、首尾よく「彼をその罪から遠ざけ、その害悪が社会に広がることを抑止する」ための個人的努力をしなければならない。その努力の形は、当人と対象、そして時や場所などの状況によって、多様に違ってくる。ここでいかに最善の手段を選ぶかは、ひとえにその者の理解力と判断力にかかっている。

 クルアーンにはこうある:「最善の形で議論しなさい。(5)

 また預言者ムハンマドは、こう言っている:「悪を目にしたら、手手(パー)で矯正せよ。もしそれが叶わなければ、口キスマークで。そしてそれさえも叶わなければ、心黒ハートで。だがそれは、信仰の最弱のレベルである。(6)

 もしかすると彼は、その破廉恥な罪が暴露される前に、悔悟するかもしれない。

 しかし個人的努力ではその害悪が広がるのをすぐ阻止できない、という場合、そしてそこに介入すれば個人的に、あるいは公的にその害悪の拡大を阻止する能力のある第三者が存在する場合(彼が言うことをよく聴く人物や、治安を司る国家機関など)、その筋に対して「その者の落ち度」を語ることがむしろ義務付けられる。

 そしてこの時、それはそもそも「陰口」とは見なされず、むしろ社会の福利を守るための正義の行いと見なされるのである。


 しかし場合によっては、誰かの罪を庇っておいたままにした方がよいケースもある。

 たとえば、公には悪徳や放縦さなどで知られていないような普通のムスリム(イスラーム教徒)が、イスラームにおいていわゆる「不法性行為」を売り物にするような店に入っていくところを、たまたま目にしてしまったような場合。

 このような場合、そのことを第三者には口外しないで隠しておくのが望ましいとされる。そして出来るならば‐特にその者が知り合いや友人であったりした場合、最善と思われるやり方で、個人的に忠告や諫言などをほどこすのがよいだろう。

 預言者は、こう言った:「アッラーは、現世にてムスリム(の罪)を庇う者(の罪)を、現世と来世にて庇って下さろう。(7)

 つまるところ、真の「知識」を備えたムスリムは、語るにせよ沈黙するにせよ、正しい知識と理解、福利と害悪を見極める正しい判断力ぴかぴか(新しい)に基づいてそうするものである。


 
続く




 (1)クルアーン113:5参照。
 (2)前者は、悪魔イブリースが嫉妬と驕慢さから、人類の祖アーダム(アダム)にひれ伏すというアッラーの命令に逆らったこと。後者は、アーダムの子ハービール(アベル)とカービール(カイン)の間に起こったこと。一説によれば、自分の持ち物の内最良のものを供物として捧げたハービールがアッラーに受け入れられ、質の低いものを供物としたカービールは受け入れられなかった。それで嫉妬したカービールは、ハービールを殺害してしまったのだという。
 (3)アル=ジュルジャーニー著「定義」117ページ参照。
  (4)アル=ブハーリーが、真正集の中に収録している伝承。
  (5)クルアーン16:125参照。
  (6)イマーム・ムスリムが、その真正集の中に収録している伝承。
  (7)イブン・マージャによる伝承。アル=アルバーニーによれば、真正な伝承。



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