2011年07月06日

イスラーム的歌評1 翼をください


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翼をください
【歌】赤い鳥
【作詞】山上路夫
【作曲】村井邦彦


1.いま私の願いごとが
  かなうならば翼がほしい
  この背中に鳥のように
  白い翼つけてください
  この大空に翼をひろげ
  飛んで行きたいよ
  悲しみのない自由な空へ
  翼はためかせ
  行きたい

2.いま富とか名誉ならば
  いらないけど翼がほしい
  子どものとき夢みたこと
  今も同じ夢に見ている
  この大空に翼をひろげ
  飛んで行きたいよ
  悲しみのない自由な空へ
  翼はためかせ


  

 この歌が発売されたのは1971年、日本フォーク音楽の全盛時と言われる頃。自分はその頃、まだ生を受けていなかった。

 時はちょうど、戦後の「新生」日本人が遮二無二に働き、急激な経済発展・復興グッド(上向き矢印)を担っていた時期。そして近代西欧文明が急激に大量流入し、物質的繁栄が達成されていく中で、日本人としてのアイデンティティや確固たる価値観・イデオロギーの空白バッド(下向き矢印)が逆に際立ってきた時代。そしてベトナム戦争、70年安保闘争、といった出来事の中で、社会運動パンチが盛んな時期でもあった。


 当時、民謡などを題材にした郷愁感あふれる、かつ強い社会的メッセージを含んだフォーク音楽が特に人の心に訴えかけたのも、そういった時代背景があったからなのかもしれない。


 さて、この「赤い鳥」の「翼をください」は、もう40年も前の歌であるにも関わらず、今でも世代を超えてよく知られた歌である。

 学校の音楽の教科書に採用されたり、「合唱コンクール」の課題曲となったり、またはリメイク・カバーされたり、あるいは「教会の讃美歌」となったりして、未だに多くの世代に受け継がれ、人気を博している。

 その美しいメロディーと、品のある物悲しい歌詞は、日本人なら誰でも一度は耳耳にしたことがあるのではないか?

 そう、確かに非常にシンプルながらも、昨今の俗悪・大量生産・利益追求ドコモポイントに特徴づけられる歌謡界からは想像もつかないような「」のある、メッセージ性の強い歌詞である。


 ところで、この曲は意外にも、そもそも「竹田の子守唄」というシングルのB面に収録された曲だった。

 この「竹田の子守唄」、放送禁止となったいわくつきの歌。

 京都の被差別部落に伝わる守り子唄(子守の仕事をする子供が歌う唄)のカバーで、歌詞の中に「在所」という部落差別を示唆する言葉が入っていたため、抗議パンチを受けたのだという。


 しかしB面もまた、A面のそれに優るとも劣らない社会的メッセージが込められている、と思う。そのテーマも、共通する部分が多い――ちなみに、A面はもちろんのこと、B面も「赤い鳥」オリジナルの作品ではない。


 そこにあるのは、「世知辛く不正が跋扈する、無常なこの世の中」で「しがらみや抑圧からの解放」や「真の自由・幸福」を、――それが叶わないながらも、希望をもって――求める儚い人間の姿である。


 「翼をください」の歌詞の中に出てくる、キーワードを私なりに分析してみよう。


 大空永遠、来世、真の自由、真の幸福、光、解放、人間的・動物的諸事からの脱却、爽快感、静寂、いるべき場所、いたい場所、真の故郷、先天的に人の心が認識する理想郷、子供の頃からの夢。

 地上浮世、人生、現実、現世、財産・地位・名誉などへの尽きない欲望、そしてそれによって起こる争い・不正・不幸・貧困・苦しみ・悲しみ、戯言、倦怠、喧騒、束縛、思い通りにならないこと、一見不平等・不条理なこと。

 地上から大空への、脱出の手段。

 白さ純粋かつ神聖で、清浄なもの。


 この詞は、真理、そして多くの人生の典型的構図を多分に含んでいる。人の共感や感動、切ない感情や淡い悲しみを誘うのは、それゆえのことでもあろう。


 しかし大方の文学などと同様で、「それでは一体どうすべきか?」「いかにその翼を手に入れるか?」という具体的方法は、提示してくれない。


 だが人が本当に必要なのは、心地よい悲しみに酔いもうやだ〜(悲しい顔)、その状態に感覚が麻痺してしまうことではない。

 実際のところ、このような状態に埋もれているのは非常に危険であるとさえ言える。

 物事の核心は本来、「問題があれば、それを正しく認識し、それから適切な解決法を見つけ、その後にそれを実践に移す」という非常に単純なことなのである。


 無論人は現実に翼を得ることは出来ないし、たとえその代替物を手に入れたところで、ずっと空にいることも出来ない。また空を越えたとしても、実はそこが理想郷などではないことを知ることになる。


 苦難と試練だらけの現世を越え、永遠の幸福と真の自由が待ち受ける世界へと、人をいざなってくれる「神聖かつ清いアイテム」。


 イスラームにおいては、この「」が明確にされ、曖昧な形でぼかされたりはしない。むしろ、それを隠蔽することは禁じられている。


 それこそは、この世の創造主から人間に下された「導きぴかぴか(新しい)」なのであり、それにすがる者は大地(人生・現世)においてよき生活を送り、死後には永遠の善(天・天国)へと到達することが約束されているのである。


 そしてこの「」は単なる逃亡や逃避の手段などではない。

 イスラームは、現世を肯定的にとらえ、かつそこで人間が必要とするものを、個人の精神レベルから社会レベルまでカバーする、包括的なマニュアルなのである。

 そして、それでもって最終的に飛び立つ時が来るまで大地から最大限のメリットを引き出し、そこで遭遇する試練に立ち向かうと共に、そこから自分の収穫となる種を蒔くことさえ出来るものなのだ。


 自分がやって来た場所と行き先とその理由を知り、かつ正しい導きを得た者は、悲しみや苦しみに打ちひしがれることがない(クルアーン2:38、20:123など参照)

 彼は地上の悪や不平等、一見不条理と見えることにも屈したり、取り乱したりはせず、善行に励む(クルアーン10:62-65など参照)

 そしてその時が到来すれば、ついに翼がつけられ、高きへと飛び立つ。

 いかなる苦痛や悲しみもない、純粋で永遠な善へと。

 そこでは嘘や戯言を聞くこともなく、不正も悪もなく、心配も苦役もなく、汚れや衰え、喪失や病苦などにも悩まされることがない(クルアーン78:35、88:2-7など参照)

 各人は、そこで真の自分を得る。

 そこは、望む物が全て手に入る理想郷(クルアーン36:57など参照)

 これこそは人の真の故郷であり、目的とする場所。

 人の記憶の中にうっすらと残り、人が「生まれた時から」心の奥底でそれを望んでいるところのものなのである。
 

 
終わり



posted by サイード at 06:36 | Comment(1) | TrackBack(0) | イスラームと現代日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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