2012年01月16日

わが辞書に「ワリカン」の一文字はなし(前編)



 知る人は知っているだろうが、アラブ人と食事レストランに行ってお金を払うのは至難の業である。


 つまり「おごり好き」なのだ。


 前もって自分が彼らを食事に招待することを了承させておく場合は別だが、「食事に行こうか?」と同じスタートラインに立って食事にでも行った場合、彼らはまず絶対こちらにお金を出させてくれない。


 張り合おうとしても大概押しの強い彼らのことであるから、結局押し切られてしまう手(パー)


 割り勘有料などは学生同士だったら普通にあるようだが、仕事を持っている大人だったら大抵自分持ちにさせてもらうことを望む場合が多い。


 このような行動思考の根底にあるものは大抵「寛容さ」「気前のよさ」「客をもてなすホスピタリティー」といったものに彼らがおいている特別の価値観ではないか。


 これらは古(いにしえ)からアラブ民族が持っていた価値観と文化であり、かつそれは度を越さない限りにおいてイスラームの教えとも合致する。


 只、イスラームにおいて求められるのは見栄や自惚れ、相手に恩義をかけるなどの目的ではなく、神のもとでの報償ぴかぴか(新しい)ゆえに行われる行為であるが。




 この意味でここに1人の典型的アラブ人がいる。


 
 僕より10歳くらい年上というのもあるが、一緒に食事レストランに行く時はぜぇーーーったい僕に払わせてくれない。


 悔しいことに僕が誘ったときでさえも、だ。


 僕もおごられっぱなしでノウノウとしていられるタイプではない。


 会計でどちらが金有料を払うかでちょっとした小競り合いのひと悶着が起こるが、やはり本場アラブ人には勝てない。


 大柄で長いアゴヒゲを蓄えた彼に断固とした態度で「オレはもう(アッラーにこの行いをするのを)誓ったんだ。」とキッパリ言われ、最後にはスゴスゴ引き下がってしまうという不甲斐ないパターンになってしまっていた。


 そもそも、会計に臨む前の意思決定の強さパンチが違うようだ。


 彼の様子を見ると、食事をする前から「神にかけて、何があっても、意地でも、オレが絶対払うちっ(怒った顔)」という決意を固めているのが分かる。


 彼は特別リッチという訳でもない。国に家族を持ち、自分の生活費を削って毎月の収入のほとんどを仕送りしている苦労人もうやだ〜(悲しい顔)である。




 ある夜、彼ともう1人のアラブ人と3人で六本木のファミレスに行った。



 一応食事前に「どうか今回は、自分に(あなた方をご馳走するという)栄誉を与えてくれないか?目」と許可を請うが、無論軽々しくはねのけられる失恋


 しかし、この夜の僕は一味違った。


 モーリタニア、サウジ帰りで「アラブの気前のよさ」を沢山味わわされてきた僕は、このままではいけない、と思っていた。


 いつも彼らにお世話になってばっかりの自分に、恥ずかしさを感じたふらふら


 しかもここは日本、いわば僕のホームタウン家である。


 日本でお客さん扱いされる屈辱は避けたい。


 日本人代表としても、そしてイスラーム教徒としても、この「遠方からのお客さんたち飛行機」にここでご馳走するのは僕でなければいけなかった。


 そしてこの夜、彼らに対する「リベンジパンチ」を遂行するため、僕はある作戦を練っていたのだよ…フフフるんるん



後編はこちら





この記事は、「アラブマイラブ」という連載記事の一部として、アラブイスラーム学院HPに投稿したものに一部手を加えたものです(恐らく2004年ごろの話)。


続きを読む
posted by サイード at 06:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。