2011年08月16日

イスラームと世界のことわざ・名言2:禍福は糾える縄の如し



 
禍福は糾える縄の如し



 (カフクはアザナえるナワのゴトし)



 意味:「良いことと悪いことは縒り合わせた縄のように表裏一体である。そのようであるので、一時の幸・不幸に深く一喜一憂しても仕方がないことであるということ。」

 (出典:http://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A6%8D%E7%A6%8F%E3%81%AF%E7%B3%BE%E3%81%88%E3%82%8B%E7%B8%84%E3%81%AE%E5%A6%82%E3%81%97

 また、三省堂の大辞林によれば:

 「災いと福とは、縄をより合わせたように入れかわり変転する」ということ。

 (出典:http://www.weblio.jp/content/%E7%A6%8D%E7%A6%8F%E3%81%AF%E7%B3%BE%E3%81%88%E3%82%8B%E7%B8%84%E3%81%AE%E5%A6%82%E3%81%97


 尚そもそもの出典は、以下の文献であるといわれる:

 1. 「漢書 賈誼(かぎ)伝」(賈誼:紀元前200年‐紀元前168年)

 (白文)夫禍之與福、何異糾纆
 (訓読)それ禍(わざわい)と福、何ぞ糾える纆(なわ、すみなわ)に異ならん。

 2. 「史記 南越伝」

 (白文)因禍為福、成敗之転、譬若糾纆
 (訓読)禍によりて福となす、成敗の転ずること、譬れば糾える纆のごとし。


 (出典:http://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A6%8D%E7%A6%8F%E3%81%AF%E7%B3%BE%E3%81%88%E3%82%8B%E7%B8%84%E3%81%AE%E5%A6%82%E3%81%97



 さてイスラーム文献において、これに類似・相当すると思われるのは、ずばりクルアーンからの次の句:


 「本当に困難と共に、安楽はあり、本当に困難と共に、安楽はある。

 
 (出典:日本ムスリム協会クルアーン訳「胸を広げる章5‐6」 http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/koran_frame.html


 多くのクルアーン解釈学者によれば、この句は以下のような状況において啓示された:


 マッカ(メッカ)の有力者であった非ムスリムたちは、預言者ムハンマドのもたらした「新奇な宗教」を厄介ちっ(怒った顔)に感じていた。


 というのも、それが彼らの代々の宗教と、彼らの習慣の一部、そして彼らが崇める偶像を糾弾するものであったからである。


 預言者ムハンマドがマッカで啓示を受け、布教を公けにした後も、当初イスラームがマッカの住民の大半から支持バッド(下向き矢印)を得ることはなかった。

 しかし信徒数が増えてくるグッド(上向き矢印)と、ムハンマドがマッカでも有力な家系に属していたこともあり、有力者たちは様々な懐柔策を練ってきた。


 その一つが、質素な生活を送っていたムハンマドに対する、次のような言葉である:

 「もしあなたの布教の目的が金有料ならば、我々は金有料を集め、あなたをマッカでも最も裕福な者の一人としてやろう。


 ムハンマドは自分の貧しさゆえに、彼らが自分を嘘つき呼ばわりするのだ、と悩んだ。


 それでアッラーはこの句を啓示され、彼への大いなる恩恵(同章の前半部を参照)を思い起させ、かつ近い未来における順境を約束されたのだという。


 (典拠:アル=バガウィー5:276、アッ=ラーズィー32:210、アル=クルトゥビー20:108など)

 
 また、その意味に関しては、次のような見解がある:


 「ここでの“困難”とは、望むものを手に入れることにおける困難のこと。そして“安楽”とは、その反対。つまり望むものを入手することの容易さと、そこにおいて苦難の不在である。」(参考:アッ=ラーズィー32:210)


 また「困難と安楽が共にある」というのは、それが続けざまに発生することを意味する(参考:イブン・アーシュール30:413)

 また同じ句が繰り返されるのは、それが確かな事実であることの強調であると言われる。
 
 
 尚、原語のアラビア語では「困難」は限定名詞であり、一方「安楽」には非限定名詞が用いられている。

 これはアラビア語の法則上、繰り返し言及されている「困難」が同一のものであり、「安楽」は別物であることを意味する。

 つまり一つの困難の前後には必ず安楽があるのであり、苦楽は代わる代わる訪れる、という意味なのだという(参考:アッ=ザッジャージュ5:341、アル=バガウィー5:275、アッ=ラーズィー32:210など)。また「安楽」が非限定名詞であるのは、それが「困難」を大きく上回る偉大なものであることを示唆している(参考:イブン・アーシュール30:414)


 そしてこの見解を裏付けるものとして、「実に1つの困難が、2つの安楽に勝ることはない」という伝承もある(参考:マーリクのムワッタァ1621、アッ=タバリー:24:495など)。つまり困難の前には常に安楽があり、その後にも必ず安楽が待っている。


 またアル=クルトゥビー(ヒジュラ暦671年没)によれば、最初の句は現世における約束である。つまり現世での困難の後には、必ず安楽がある。これは預言者ムハンマドに対するものだが、彼以外の者にも当てはまるかもしれない。

 そしてその次の句は、信仰者に対する来世の約束を示しているのだという。つまり信仰者は、現世で困難にあっても、来世では必ずや安楽に巡り合うということである(20:108)


 ちなみに、「胸を広げる」章全体の訳は以下のようなもの:

 1. われは、あなたの胸を広げなかったか。
 2. あなたから重荷を降したではないか。
 3. それは、あなたの背中を押し付けていた。
 4. またわれは、あなたの名声を高めたではないか。
 5. 本当に困難と共に、安楽はあり、
 6. 本当に困難と共に、安楽はある。
 7. それで(当面の務めから)楽になったら、更に労苦して、
 8. (只一筋に)あなたの主に傾倒するがいい。

 (出典:日本ムスリム協会クルアーン訳 http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/koran_frame.html


 アル=ジャザーイリー(西暦1921年〜)は、この章の後半に関してこう述べている:

 「これは信徒の前で預言者ムハンマドがそれを実践し、かつ信徒らも彼と共に実践すべく示された、ムスリムの人生の手法である。

 つまり宗教的行為を終えたら現世的行為に努力し、現世的行為を終えたら宗教的行為に勤しむ

 ムスリムは真剣さと苦労の人生を生き、遊興や戯れごと、怠惰や無為の時間を過ごすべきではないのだ・・・。」(5:589)


 ふむふむ目、心に響く言葉である。


 だが自分を筆頭に、なかなかこの理想を実行しているムスリムはいない・・・ふらふら


 
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