2013年02月25日

マッカ・マディーナ旅行6‐1(2013年冬)




1月22日火曜日(6の1)




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ヒジュラ暦1350年(西暦1930年)頃の「弓兵の山」。以前はこのように、民家などが建てられていた。




 この日は、ひょんなことから、マディーナの歴史に詳しいサウジ人に、マディーナの「見所目」を案内してもらうことになった。


 午前10時にウフド山で待ち合わせをしていたが、早めに行って待ち合わせ場所を確認眼鏡し(我ながら日本人らしい行動)、それからクバー・モスクを訪問。


 その後ウフド山へ行くと、ちょうどズフル(正午過ぎの礼拝)の時間。


 旅行者なので、まとめ礼拝をし、初対面の「名所」案内人I氏と落ち合う。


 I氏はマディーナのサウジ人だが、見た目も言葉も明らかにシャーム地方(現在のシリア、パレスチナ、ヨルダン、レバノンといった地域)がルーツの人っぽい。


 彼は妻の友人づてに紹介を受けた人で、突如、僕たちの案内をボランティアでしてくれることになったのだ。


 今回は約5時間ほどで、マディーナの主な「名所」をサッと簡単に回る、ということで、早速ガイドが始まる。


 まずは、待ち合わせ場所のウフド山から。


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このウフド山一帯は、預言者モスクのあるマディーナの中心部から、4kmほどの場所。



 「弓兵の山」のふもとで、I氏による簡単な解説が始まる。


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目立たないが、写真左上の方にも殉教者らの墓場がある



 そもそもここは、ヒジュラ暦3年(西暦625年)、ムスリムに敵対するマッカ軍が、マディーナに攻め込んできて勃発した「ウフドの戦い」の場所。


 マッカ軍は、前年のバドルの戦いでの大敗バッド(下向き矢印)、そこで数々の指導者たちを殺されたことの復讐に燃えていたむかっ(怒り)
 

 預言者ムハンマドは、マッカ軍遠征の情報を入手した時、町で待ち構えて彼らを迎撃するか、あるいは町を出て離れたところで戦うか、教友らと相談した。


 その時、バドルの戦いの大勝利に立ち会えなかったことを悔やむ教友らの一部が、血気にはやり、町を出てマッカ軍を迎え撃つことを、強硬に主張手(グー)


 結局アッラーの思し召しと英知により、預言者はその意見を採用する。



 マディーナ軍の兵数は当初、約1000名(特筆する装備としては、100着の鎧、馬2頭といったもの)。


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シャイハイン・モスク(またはディルゥ・モスク)と呼ばれるモスク。預言者ムハンマド率いるマディーナ軍が、ウフド山に行軍する際、ここで一泊したと伝えられる(サムフーディー3:206)。無論、当時このような形のモスクがあったわけではない。一説にここで、イブン・ウマル、アブーサイード・アルフドリーら当時の年少者らが戦場に行くのを許されずに返され、偽信者イブン・ウバイイらが退却したのだという。



 しかし行軍の途上で、イブン・ウバイイ率いる偽信者たちが、約300名の兵とともに引き返してしまう。


 彼らは表面上はイスラームに改宗したものの、チャンスあらばマディーナ内部からムスリムたちに打撃パンチを与えようと、虎視眈々と狙っていた人々ドコモポイントだった。

 

 その後も行軍を続けくつ、ウフド山麓に到着すると、預言者はマッカ軍を迎え撃つのに絶好の戦陣を整えた。


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写真手前がマディーナ軍陣営が控えていた方面、写真奥がマッカ軍が攻めてきた大よその方向



 マディーナ軍は、ウフド山をバックにし、「アイナイン山」という小さな山に約50名の弓兵を配置。


 彼らには上方からの敵への攻撃と戦陣の援護、そして何があってもそこから動かないことを、命令した。


 この山が、それ以来「弓兵の山」と呼ばれるもの。


 さらに、弓兵の山のすぐ南側には渓谷とナツメヤシ園(当時)が広がっていた。


 弓兵の山と渓谷の間はそもそも狭く、弓兵の存在もあって、そこを通過してマディーナ軍の後ろから攻めるのは至難の業だった。


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弓兵の山。下の衛星写真内の、青矢印の角度からのもの



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 兵数と装備において劣っていたマディーナ軍だったが、戦闘が始まると優勢グッド(上向き矢印)に。


 尚、マッカ軍は兵数約3000、兵数とほぼ同数のラクダを率い、鎧数は約700、200頭もの馬を連れてきていた。兵数だけで言っても、マディーナ軍の4倍以上である。


 後にはムスリムになってイスラーム国家の名将となる、ハーリド・ブン・ワリード率いるマッカ軍の騎兵隊も、山の上の弓兵隊が邪魔で、マディーナ軍の戦陣に突撃できない。


 こうしてマッカ軍が戦利品を置いて退脚し始めた時ダッシュ(走り出すさま)、それを見た弓兵隊の大半(40人ほどと言われる)が、戦いが終わったものと早合点し、戦利品を取りに山を降りてしまう。


 預言者ムハンマドの命令に背いた形となったこの行為が、戦況の大きな転機バッド(下向き矢印)となった。


 弓兵隊が手薄になったのを見逃さなかった騎兵隊長ハーリド・ブン・ワリードが、ここで弓兵の山の脇をすり抜け、回り込みつつ、マディーナ軍へ後方から突撃。


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弓兵の山の小さな黄緑色の矢印が、弓兵たちが降りた方向



 戦況は一転し、マディーナ軍は混乱に陥る。


 多くの死者が出ると同時に、預言者ムハンマドが殺された、という噂が流れ、軍の士気は大きく下がる。


 だが、このような時でも預言者の近くにいたサハーバ(教友たち)は、彼を囲んで庇いつつ、ウフド山の谷間へ撤退。


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 この戦いで、預言者は額や歯などを負傷し、流血した。


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 ウフド山の奥に避難し、預言者は愛娘ファーティマやその夫で自身の甥にもあたるアリーから、傷の手当てを受ける。


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途中、預言者が横たわって頭を載せたと言われる岩。その信憑性は、以下に述べる「ウフド洞窟」よりも低いだろう。神のみぞ知る。



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預言者が運び込まれた、という洞窟。



 これに関し、I氏は「珍しい場所」へと案内してくれた。


 ただ、預言者が運ばれたという「ウフド洞窟」に関しては、後で調べてみたところ、彼がよく引用していた文献においてさえも、「一般人の間で流布しているだけの、無根拠なもの」という評価がされていた。


 例えば、現代のマディーナ史学者カァキーは、「この(ウフド)洞窟について多くの文筆家、歴史家が語っているが、大半はそれを裏付ける確実な伝承がないという見解で一致している」と、まとめている(「マディーナの見所」179頁)。


 先代・後代の歴史家による、他の言葉を挙げてみると・・・


 イブン・シャッバ(ヒジュラ暦262年没)の伝える伝承「彼は(ウフドで)、洞窟に入らなかった。」(「マディーナの知らせ」1:78)」


 マタリー(ヒジュラ暦741年没):「一般人が語っているこの洞窟については伝承もなく、無根拠。」(「マディーナに関する情報の貴い真珠」45頁)


 また、ちょうどカァキーの言葉と同様の言葉が、イブン・ナッジャール(ヒジュラ暦643年没)によって伝えられている(サムフーディー(ヒジュラ暦911年没)「ワファーウ・ワファー」2:930)。


 ちなみに、彼(カァキー)によれば、ウフド山には同様の小さな洞窟が、山ほどあるそうだ。


 この「ウフド洞窟」は、まだ歴史家によって取り上げられている。


 しかし、先の「預言者が頭をおいた岩」は、今のところそれらしい出典も目にしていない。


 尚、この洞窟は数ヶ月前に入り口を閉鎖された。


 サウジアラビア宗教界からの圧力だろう。無知な人々がそのような場所に行き、宗教的に「逸脱」した行為をすることを防ぐためだ。


 そして、それが真に無根拠な言い伝えで訪問の対象になっていたとしたら、これは確かに大きな逸脱である。


 I氏は、恐らく何十回もそこには赴いているのだろうが、そのような仕打ちを恨めしく思っているようだった。


 彼が、サウジアラビアで現在メインになっている宗教界とは別の方向性をもった人なのは、明らかだった。
 

 尚、「ウフド洞窟」に入った人によれば、中には芳香が立ちこめているのだという。


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ウフド洞窟の中






 また、これは同じ地域にある、「ファスフ・モスク」と呼ばれる場所。 


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 この方面に避難したムスリムたちが預言者に率いられ、この場所でズフル(正午過ぎの礼拝)、あるいはズフルとアスル(午後遅くの礼拝)をまとめて、座りながら行った(預言者が負傷していたため)とされる(サムフーディー3:204−205)。


 
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今でも残る、ミフラーブ跡(礼拝を率いる者が立つ場所)。

 

 今ではレンガの廃墟だが、そもそもウフドの戦いの時にモスクがあったわけではない。


 後世の人々は、預言者や、その他の偉人が礼拝した場所、滞在した場所、あるいはその墓など、至る所にモスクやドームなどを建設し、そこに特別なご利益を求めたのである(*注)


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一昔前のファスフ・モスク。まだ形がよく残っている。









 さて、ウフドの戦いでのマッカ軍の第一の目的は、預言者ムハンマドの殺害だったが、その目的は果たされることがなかった。


 彼らは次回の戦いを約束して、マッカへと引き返して行った。





 この戦いでマディーナ側には約70名の戦死者が出た(マッカ側は40名あまり)が、その犠牲者の一人がハムザ・ブン・アブドルムッタリブ。



 預言者の叔父・乳兄弟にあたり、クライシュ族の中でも勇猛さで名を馳せ、後の第3代正統カリフ・ウマルと共に、その改宗がムスリムの興隆に大きく貢献したとされる人物。


 バドルの戦い以降、このハムザに対し、特別な復讐心を燃やす者たちがいた。


 バドルで自らの叔父を、ハムザに殺されたジュバイル・ブン・ムトゥイムという男。


 彼は自分の奴隷ワフシーに、「ハムザを殺したら、自由にしてやる」と約束したのであり、槍の名手エチオピア人ワフシーは、ウフドの地でそれを果たしたのだった。


 そのハムザが殺された場所、と言われるのがこの辺りなのだという。


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円で囲んだ辺り。山は、弓兵の山。赤い矢印は、後世になって作られた小さなモスク跡。I氏によれば、マディーナ軍がウフド山に到着した時、ここでズフル(正午過ぎの礼拝)をしたのだという。が、彼がよく引用していた歴史家サムフーディーによれば、それはこことは違う場所だ。何より、数百人のムスリムたちが、この小さく平坦でない場所(数メートル四方)で礼拝するには無理がある。


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上の写真の「弓兵の山」は、青矢印の角度から見たもの



 バドルの戦いで自分の父親と兄弟をハムザに殺されたヒンドは、彼への憎しみと復讐心から、ここで彼の遺体を傷つけて辱しめた(肝臓を取り出し、食いちぎったとされる)。


 ハムザを始めとした殉教者らは戦いの後、ウフド山と「弓兵の山」の間に埋葬され、預言者によって葬儀の礼拝が執り行われた。


 現在、ハムザらの墓として知られる場所は、ウマイヤ朝カリフ・ムアーウィヤの時代(ヒジュラ暦41年)に、洪水が起きて墓が露わになってしまった後、再び同じようなことが起きないようにと、移された場所。


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現在のハムザの墓。



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一昔前のハムザの墓。やはり、建物が建てられている・・・



 一説に、その時代に至っても、ハムザを始めとした殉教者らの遺体は、まだ血が流れ、芳香を放っていたとも言われる。


 尚、ハムザを殺したエチオピア人ワフシーは、その後イスラームを受け入れた(その遺体を傷つけたヒンド、ウフドの戦いにおけるマッカ軍指揮官アブー・スフヤーンらも、ほぼ同時期のマッカ開城時にイスラームを受容)。


 そして、ハムザの命を奪ったその槍が今度は、奇しくも預言者時代に出現した偽預言者ムサイリマに命中することになる。




 ウフドの戦いでは、様々なドラマがあった。



 例えば、ハムザの横に眠っている、預言者の甥アブドッラー・ブン・ジャハシュ


 彼は、後に預言者の妻の1人となるザイナブ・ビント・ジャハシュの兄弟。


 マッカ時代でも初期にイスラームを受け入れ、2つのヒジュラ(マディーナへの移住の前にも、エチオピアへの移住があった)を経験した。


 彼はウフドの戦いに出る前、サァド・ブン・アビー・ワッカースと共に殉教を祈った。


 そこで彼は、「戦いで鼻をもがれ、耳を切り裂かれて、殉教できますように。そしてアッラーにそのことを尋ねられたら、『アッラーよ、あなたとあなたの使徒ゆえに、それらを切り裂かれたのです』と答えられますよう。」と祈り、その祈願は実際に叶えられた。


 そして殉教することが出来なかったサァドは、アブドッラー・ブン・ジャハシュを「私よりも意図が真摯だったがゆえに、祈願が受け入れられたのだ」と称えたのだという。

 
 また、やはりハムザの横で眠っているという説があるムスアブ・ブン・ウマイル


 ムスアブの妻は、先のアブドッラーの姉妹。


 やはりマッカで初期に改宗した傑出した教友の1人で、昔はマッカでも一番のお洒落な若者だったが、改宗してからは敬虔で禁欲的なムスリムに。


 やはり2つのヒジュラを経験し、ムスリムたちのマディーナ移住が始まる前に、いち早くマディーナへと遣わされ、当地でのイスラーム布教に貢献し、マッカからの大規模な移住のお膳立てをした。


 ウフドの戦いでは戦旗モータースポーツを持ち、預言者を護衛して殉教。


 また、ハンザラ・ブン・アビー・アーミル


 新婚の初夜を迎えようとしている矢先に、ウフドへの出征の声演劇を聞く。


 そのまま新婚の妻を置いて、勇んで戦場へと繰り出し、殉教。


 アナス・ブン・ナダル


 預言者が殺されたという噂が流された時、士気の下がった仲間たちを励まし、敵に突進して行って、文字通り自分の身が散り散りになるまで、勇敢に戦った教友。


 その遺体には80数箇所もの傷があり、彼の姉妹でさえも彼の指先によって、辛うじて彼と判別できたほどだった。


 アムル・ブン・ジュムーフ


 足足が悪かったため、預言者や自分の息子たちにも一度は止められたが、殉教を望んで戦場へ。


 先のバドルの戦いでは同じ理由であきらめたが、今回は引き下がらず、戦いへの参加を執拗に陳情し、受け入れられた。


 彼の遺体を見て、預言者は「あたかも、あなたが正常な足で天国を歩くのを見ているかのようだ」と語ったとされる。


 ナスィーバ・ビント・カァブ


 預言者のそばで、剣を振るって彼の護衛のために勇敢に戦った女性。


 幾多の傷を負いながらも、預言者の賛嘆を買うほどに戦い通した。





 そこには自分たちの信念のために、命を惜しまない、死を恐れない多くの人たちがいた。


 全てはアッラーのご意思と定めによるもの。


 しかしその信念がイスラームという「本物」であり、その信徒がその信念において真摯だったからこそ、イスラームは、そしてムスリムは、わずか数年間で奇跡的な興隆を遂げることになったのである。



続く







(*注) イブン・タイミーヤ(ヒジュラ暦728年没)は、言う:「マディーナには(預言者モスクと)クバー・モスクを除いては、(崇拝行為を意図して)訪問が許されるモスクはない。その他のモスクは(一般の)モスクと同様の位置づけであり、預言者はそれらを訪問の対象として特別視しなかった。このため、マディーナの法学者たちはクバー・モスクを除き、これらのモスクのいずれにも赴かないのである…(「まっすぐな道の踏襲」344頁)
 また墓に関しては、その上に何かを建てたりすることは、原則として禁じられている(ムスリムの真正集など)。




posted by サイード at 08:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | サウジアラビア日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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