2010年12月21日

サイードのサウジ人考察4(2004年)

4. イスラーム教徒の現状について話し合う

a0002_004201.jpg


 ある教養があり宗教的なサウジ人と、日本の男女交際について話す機会があった。

 彼は日本でオープンな男女交際、そして婚前交渉が当然になっている旨を知ると、「彼らの両親はそれを了承しているのか?」と訊いた。「大体知っている。」と言うと、

 「信じられん、オー、マイガッド!がく〜(落胆した顔)

 といった感じに、彼の顔にはあからさまな嫌悪感が表れた。

 更に、婚外交渉のための「施設」があることを知ると、それは頂点に達した。

 西欧人も日本人も生得的に恥知らずで下賎な連中、といった風の考えが彼に根付きそうな危険性を察知し、また、彼が「ムスリム(イスラーム教徒)」「カーフィル(1)」と余りに単純な人間種別判断をしがちなことに気付いた僕は、

 「彼らはムスリムじゃないから、婚前交渉をしても別に不思議はないし、とがめだてもない。僕はむしろ、それを禁じている宗教を信じながらそのような事を犯す人々が理解できない。」

 「非ムスリムでも同じ人間で、良い人もいれば悪い人もいる。宗教で禁じられていなくとも、そのようなことを嫌う人も存在する。」

 「現在イスラームに対する悪いイメージの原因は、多くのムスリムが主張しているところの西側メディアの歪められた情報による影響だけでなく、社会に現存する生きたイスラーム教徒の人格的・素行的悪例も大きな原因である。」

 「イスラーム改宗当初、日本で見た多くのムスリムの不真面目さと悪行、不信心は僕を本当に悲しませもうやだ〜(悲しい顔)、腹立たしい思いちっ(怒った顔)をさせた。」とそちら側に立った意見を言うと、

 「日本でサウジ人についてもそのようなことを見聞きしたりしたのかね?」

 特に例を挙げずにただ正直に頷くと、

 「では、外国で悪い日本人を見たからといって、日本人全員を同じように判断できるか?」

 と言う。

 「もし沢山見ているのであれば、ある程度の統計に従った推測として、そう言うことも出来る。」

 と僕。

 「ではイラクに軍隊を派遣することを決定したコイズミから判断して、日本人全体を悪と見做せるか?」

 とも訊かれたが、コイズミは一般人ではないし、現に6割を越す日本人が自衛隊派遣に反対しているという某新聞社の統計もある。彼は続ける。

 「人間は弱い。完璧な人間などいないし、イスラームを体現したなどというのは預言者以外にいない。サハーバ(預言者の教友)でさえ酒を飲んでムチ打たれた者もいる。」

 「酒を飲んだり姦通したりといった過ちを犯すムスリムは信仰心の弱いムスリムで、とにかくムスリム。神のご意思に元に最後には天国に入る。」

 「何人かだけの人を見てその国全ての人を判断してはいけない。その国の人を本当に良く知るには、その国に行かなくては(っていうか、ここでも結構ふらふら・・・と言いたいところだったが、流石にそれは控えておいた)。」

 そしてこのような話題の定番「ムスリムを見てイスラームを判断してはならない。」という言葉。

 この言葉は実際に正しいのだが、余りに易々と頻繁に、自己弁護的に使われているような気がしてならない。

 それに現実問題としてイスラームに特に関心がない者にとっては、イスラームそのものに触れたり知ったりする機会など殆ど無いし、そんな彼らにとって生きた身近な事例を見て受ける影響というのは測り知れないほど大きい。

 現代ムスリムは一般に、過度の被害者意識自己弁護、そして自己批判と自己認識の欠如が顕著であり、「身内びいき」がここにも現れているような気がする。

 例えそれが望ましい姿でなくとも、まず現実を正しく客観的に認識して受け入れないことには、改善や進歩はありえないのではないか。

 自らを甘やかしてばかりいる者に成長はないのではないか。

 「ムスリムを見てイスラームを判断してはならない。」という言葉が「単なる言い逃れ」と見做されるようになる前に、「ムスリムを通してイスラームを知ってもらうようになれるよう、努力しよう。」ともう1歩上のステージを目指そう、というようにならなければ進歩はないというのが僕の考えだが、果たして僕は余りに厳しすぎるのだろうか。

 まず自分の内面から、そしてその周り、更に遠くへと向かって段階的に「矯正」していけば、自然とイスラームが良い形で広まると思うのだが。彼は「最初の間違いはムスリムの側からだが、彼らの姿だけを見てイスラームを判断しようとする彼らも間違いだ。」と結論付けたが、僕はやはり自分の位置している側を厳しく見たい。




 (1)語源的には「何かを隠蔽する者」という意味だが、それが「イスラームの信仰を知りつつも、それを隠蔽しようとする者」という意味で用いられるようになった、と言われる。ゆえにまだ正しく十分な形でイスラームが伝わっていない人々に対し、この言葉を用いることをためらうムスリムも多い。



posted by サイード at 16:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | サウジアラビア日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。