2010年12月08日

日本人とモーリタニア人(2002年12月)


 こちらのラマダーン明けの祭り「イード・ル・フィトル」は12月5日だった。前日の晩までにザカート・ル・フィトル(その年の所得に応じて定められた金額を支払う、イスラームの5柱の内の1つの義務行為)を学生寮の責任者に払う。集められたお金は貧窮者への配給のための米等の購入費にあてがわれる、という事だった。

 当日は午前9時頃近くのモスクへ行き、イードの特別集団礼拝。その後、寮の学生たちと教師たちで学校の特別会場に集まり、学生委員会が中心となって司会・進行する賞品付きのクイズ大会や、ちょっとしたマンザイみたいなものなどの催し物を観る。正直言って僕にとってはお世辞にも心から楽しめるようなものではなかった。

 その後は寮に戻り、普段とはちょっと違う、幾分バリエーションに富んだ朝食。

 この後カメラマン及び僕を含む何人かの持参してきたカメラで写真撮影大会が幕を切られた。カメラマンの男は可哀相にひっきりなしに「おい、こっちだ!」「次はこっちでオレたちを撮れ!」とあちらこちらから引っ張りだこにされていて、息もつく暇もないように思われた。僕も去年のアラブイスラーム学院でのイードの際にはてこずらされたのだが、特にブラック・アフリカ系の学生たちは自己中心的でマナーが悪いのが多く、人の身になって考えるというのが余り出来ないのであった。僕も、恐らく後で友人や家族に「こいつが日本人なんだ!」とでも言って珍しがらせんためであろう、「サイード、こっちで撮るぞ!」「サイード、次はオレと2人で!」と、人や場所をとっかえひっかえ計20枚くらいは撮られた。でもこれは悪い気はせず、かえって楽しめた。

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 尚、僕のデジタルカメラは皆の脚光を浴び、日本では単なるコンピューター・オンチにしか分類されえない僕も、こっちではさしずめ「近未来都市からやってきたサイバーボーイるんるん」扱いだった。ので、日本人の代表として一応それらしく振舞っておいた。

 写真撮影大会後は、以前約束していた通りナイジェリア人の友人マアローフと海岸へ。すると、2人で寮を出て行ったのを見つけたもう2人のナイジェリア人が、「どこ行くのかな?わしらには声かけんで・・」という感じでついてきてしまった。普段は漁師や市場の人間で騒々しい海岸も、この日ばかりは人気がなくとても静かだった。砂浜を散歩しながら、そこでも記念撮影をした。

 夕方は、とあるホテルでの在モーリタニア邦人の夕食会に参加。何でも、在モーリタニア日本領事館がその管轄下にある、セネガル総領事夫妻の来訪を機会にセッティングされた晩餐会らしかった。集まった日本人は約15名というところか。それでもここで初めて日本人を目にした僕は、こんなにいるものか、一体ここで何してんだろう?と驚いたものだった。大体は技術供与等の目的で、政府を通じて日本の民間会社から派遣されてきた人たちだった。僕は明らかにその中では浮いていたと思う。まず彼らとは世代差があったし、この国の滞在理由が「イスラーム留学」という一種特殊な響きのあるものだったし、更には日本人のイスラーム教徒であるというので。「ハァー?」「あっやしいなあ」というのが正直な感想だろうが、同席していた方々は皆教養が高く礼儀正しい人たちで、そのような感情を表面にあらわさなかったし、却ってテーブル上の酒類について気遣ってくれたりするくらいだった。

 ところで。ちょっと他の方々には失礼だし、無論自分自身をその範疇から除外するつもりも更々ないが、しかし確かに日本人は奇妙な民族だ。しばらくこっちの人たちの中にいて突如「日本人社会」の中に放り込まれたとき、それを強く実感した。「こちらの人の目から見た日本人の印象」を軽く取り上げてみよう。

純粋に形質的な異質感

 単純に肌の色、骨格、顔相、といったものがかなり異なっている。具体的に言えば随分と色が白く、小柄で、四肢が短い。また、顔の各部の造作が小さく、頭部が丸型で、毛髪が直毛であることなど。アラブは勿論、意外なことに黒人と白人の形質的な差異も肌の色を除けば僅かである。時々アルビノ黒人(遺伝的な関係で肌が白く金髪の黒人)を見るが、彼らは殆ど白人種と見分けがつかない。この形質というポイントは、特に第一印象において大きな心理的効果を及ぼす。

行動・思考パターンの違い

 1.初めて人と会うときの態度。こちらでは人と会うときに正面から笑顔で向き合い、握手などをして挨拶する。友好・親愛の念を隠すことなく直球で投げあい、同じ線に並んで立つのである。一方、一般的に日本人は直接正面から向き合わない。頭を下げるという行為は決して純粋に慣習的で形式的な行動ではなく、そこには様々な意味や心理的効果があるように思われる。友好の念の表明というよりは、尊敬・謙譲の象徴的行為であり、これは同じ線に並んで立つことや過度の接近を避ける効果をもっている。形式上は相手を上に立てることになっているが、本心は決してその建前と一致する必要はない。顔を伏せるということは表情を隠すことも出来るという事だ。こちらはさしずめ変化球である。僕はこの点においては前者を愛する。単純にそれがより率直で誠実な表現方法で、そこに嘘や隠し事が含まれにくいからであり、本心のぶつかり合いが感じあえるからである。そして、心身をもって親愛を感じるのは「気持ちよいぴかぴか(新しい)」事なのだ。

 2.前号でも書いた通り、大概においてこちらの人はいい意味で率直、悪い意味で不躾でぶっきらぼうだ。日本人は非常に自己規律と礼儀に優れている反面、表情や感情表現の乏しさもあって理解し辛く、本音を隠しているようで時に不気味である。後者のほうがより複雑な行動パターンなのだが、両者共に極端に傾きすぎると危うい欠点と、素晴らしい長所を併せ持っている。

 3.日本人は「周りの目」に対する意識が強い。そしてそれは社会生活の発展に大きく供与してきた優れた特性の1つでもあるが、それも行き過ぎると自らと自分の視点を失ってしまう。それに対しこっちの人たちはより主体的で、時に(いや、多くの場合か?)自己中心的になりすぎる傾向がある。前者は「団体競技向き」で、なるべく各々が均質的であることを好むが、後者は「個人競技向き」で、のびのびとした個性が育ちやすい。

 4.決定的で根本的な相違点。こちらの人々は各人の信仰心の差こそあれ、イスラームという根っこを持って生きている。そしてそれは人種や国家というものを超えた、宇宙的規模の普遍的思想である。そこにはいつも創造主への意識と畏れがあり、この世が終わってもそこにはまだ続きがあり、そこで現世での精算と報いを受けるのだ、という人生観がある。そしてこのイスラームという教えにおいて、万物の頂点である創造主は全宇宙を思いのままに操りそこに法則を与えたように、人間生活の隅々まで網羅して制約と指針を与えている。全ての前提に「神」がある人とそうでない人の間には確かに見えない大きな差がある。確かに日本人は一見この世で成功し繁栄しているように見える。が、あの島を埋め尽くしているあれら宝の山を取り除いてみたらそこには一体何が残るのだろうか?敗戦後に猛烈な勢いと甚大な努力を持って築かれたこの巨大な城は、果たして何という名のもとに成立しているのだろう?民主主義は人の生きる便宜にはなっても、生きる意味には到底なりえない。そこには大きな空白がある。ものを見るときにそこに多くの不可視範囲があるように、意識にも、捉えられない膨大な空白がある。コンクリートとアスファルトの覆いが人々の視界を更に狭めている。そしてその空白は時に人の心を侵食し、崩壊させてしまいうる。仕事を失ったゆえにその存在意義を喪失し命を断ってしまう、などというのは余りに虚しい人生ではないか。

 最後のポイントは別にしても、こちらの人々の行動様式の方が世界の主流なのであり、日本人の方がちょっと特異なのである。さて、晩餐会でお会いした方々は前に述べた通り、皆教養が高く上品な人たちであった。しかし意外なことにこの中に入ってみると、その素行の悪さと礼儀のなさにがっかりさせられていたあの学生たちがいとおしく感じられるのだった。人は勝手なものである。単純だが率直でダイナミックな彼らが恋しくなったのである。恐らくそれは只1つのことによっているのだと思う。つまり、思想の根幹の共有だ。それがある限り、率直さが無知から不躾さになってしまっても心から憎めはしない。太くしっかりと大地に根を張っているが枝葉が発達していない樹木と、枝葉を広く伸ばし果実を実らせているかのようだが、根っこが細く剥き出しになって今にも倒れそうになっている樹木がある。存在の始まりと脈々と続く歴史を引き継ぎ、背負いながら生きること。霊的にも質的にも健康な生命。それがなければ果実も花もないところの重要な前提。

 彼らには、何は無くともそれがあった。

posted by サイード at 09:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | モーリタニア日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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